八事電車
昭和46年(1971)まで大久手と八事の間を市電が走っていました。もっと以前には八事からさらに先の八事霊園まで線路があり、この区間は「墓地線」と呼ばれていました。大久手から国道153号線に沿って八事方面に向かう路線は「八事電車」と呼ばれていました。
そもそもの始まりは明治39年(1906)10月に設立された愛知馬車鉄道です。馬車鉄道とは文字通り馬車が走る鉄道で、動力はもちろん馬です。旧飯田街道の中道から八事興正寺付近までレールを敷設し、明治41年(1908)8月31日に開通しました。
しかし時代はすでに電気へと移っており、馬車鉄道開設から2年後の明治43年(1910)には運行ルート、また馬車から電車への変更を国に申請するとともに社名も尾張電気軌道に変更します。そして明治45年(1912)4月21日に千早から興正寺前までが開通し、八事電車が誕生します。開通翌月の5月12日には興正寺前から八事まで延伸し、同月25日には大久手から今池間が開通しました。開通から2年後の大正3年(1914)に八事霊園ができ、翌4年(1915)6月1日には八事火葬場が完成します。5月23日に八事から霊園入口へと続く墓地線が単線で開通し、これにより八事電車の路線網は完成しました。
墓地線には後にも先にも日本で唯一の「霊柩電車」が走っていました。まだ自動車が普及する前だったので、電車で土葬墓地や火葬場まで運んでいました。遺体の運賃はどこの電停から運んでも一律3円で、近親者は20名まで往路無料となっており、死者を送る人たちにも優しく心を配る料金体系でした。
八事電車の乗客数は順調に伸びていましたが、昭和4年(1929)6月、尾張電気軌道は鉄道部門を新三河鉄道に身売りします。新三河鉄道は八事沿線にはほとんど縁のない会社で、八事電車に愛着があるわけではありませんでした。八事電車買収から2年後に墓地線の廃止を国に申請し受理されます。正確な年月は不明ですが、昭和10年(1935)のとある日に墓地線は廃線になった可能性が高いみたいです。
新三河鉄道による八事電車の運営は尾張電気軌道のときのようにはいきませんでした。車両の更新や鉄路のメンテナンスがままならなかったようです。そのため沿線住民から市営化を求める声が生まれ、その声は大きくなり、昭和12年(1937)3月1日に八事電車は名古屋市電になりました。戦後、八事・杁中地区は次々と家が建ち、「まち」となりつつあり、こうした中で八事電車は沿線住民の足として定着しました。
しかし、やがて自動車が普及し、一般市民も自動車を持つようになりました。そのため名古屋市電は相次いで廃止され、バスや地下鉄に置き換えられました。八事電車も例外ではなく、昭和46年(1971)4月1日に八事~安田車庫前間が、昭和49年(1974)3月31日に安田車庫前~大久手間が廃止されました。明治45年(1912)の開通から62年間走り続け、その役割を終えました。